お水取りとQOL

さて、今回は関西に春を呼ぶ行事として毎年ニュースになるお水取りのお話しです。

実は私は奈良市に住まいしており、オフの朝のウオーキングにはよく東大寺の境内を歩きます。
修二会の前になると、松明にする竹の奉納行事や、二月堂周辺では観覧者の危険防止のための竹矢来の設置がされ、2月末頃からは早朝から近日中に使う松明の作成作業を観ることが出来ます。

さて、東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)について少し触れておきましょう。
修二会は、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟、実忠和尚(じっちゅうかしょう)が創始されました。
以来、令和4年(2022)に至るまで1271回を数えます。

修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と言います。
十一面悔過とは、われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩(絶対秘仏)の宝前で、懺悔(さんげ)することを意味します。
修二会が創始された古代では、それは国家や万民のためになされる宗教行事を意味していました。
天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽など、人々の幸福を願う行事とされました。
古代中国には、「全ての天災は、為政者の不徳によるもの」だとする天人感応説というものがありましたが、その影響を色濃く受けているため国が創建した寺である東大寺において開催されることになったと思われます。

東大寺のながい歴史にあって、平清盛の命による南都焼討(1180年)と松永久秀の東大寺攻め(1567年)の二度に渡る戦火の中で、その大伽藍の大半が失われてしまった時ですら、修二会だけは「不退の行法」として1250有余年もの間一度も絶えることなく連綿と今日に至るまで引き継がれてきたのです。

この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われていますが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになったのです。また二月堂の名もこのことに由来しています。
期せずしてこのメルマガの発行日は、法会の始まりにあたる3月1日ですね。

行中の3月12日深夜(13日の午前1時半頃)には、「お水取り」といって二月堂の近くにある若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式が行われます。
また、夜毎行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)が二月堂へと登るための道明かりとして、火がともされた大松明を持った童子(どうじ)が練行衆に付きます。
特に12日には長さ約8メートル・重さ約70キロの籠松明が用いられます。
このようなことから「修二会」は「お水取り」・「お松明」とも呼ばれるようになった訳です。
12月16日(良弁僧正の命日)に翌年の修二会を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる11名の僧侶が発表され、明けて2月20日より別火(べっか)と呼ばれる前行が始まり、3月1日からの本行に備えます。
そして3月1日から14日まで、二七ヶ日夜(二週間)の間、二月堂において修二会の本行が勤められます。
以上が修二会の概略と行ったところです。

また修二会の行ではありませんが、15日には二月堂付近で達陀(だったん)を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる僧侶が被っていた帽子「達陀帽」を子どもの頭に被せることで、健やかな成長を祈る「達陀帽いだかせ」という行事があります。

さて、この連綿と続いている修二会のコンセプトは人々の幸福を願うことです。
私たちの心を揺さぶるのは、東大寺を創建した聖武天皇とそれを後押ししたと言われる光明皇后のポリシーが、生活の質・人生の質と言った現代のQOLの考えに通じるものであり、修二会という稀有な行事において1200年以上の時を超えて脈々と現在ま
で受け継がれている驚きに他なりません。
また、東大寺の創建は聖武天皇が発案したものの、国の予算で全て賄ったのではなく、天然痘の流行や地震、飢饉の連続で疲弊していた民衆から行基を中心とした勧進による資金調達により成し遂げられました。
これは、当時の民衆においても今で言うQOLの向上を目指すといった考え方に通じるものがあったのではないかと思えてなりません。
これからも修二会の行は人々の幸福を願うというコンセプトを大切に抱きながら、未来永劫途切れることなく続いていってほしいと念ずるばかりです。